難波博孝「「新しい実在論」と第三項理論」についての指摘いろいろ

長文。2万字程度。2018年10月あたりに書いたもの。

アブストラクトは気が向いたら書くかもしれませんし、書かないかもしれません。

 

[2019/02/15 追記]

 氏の論文を読んで、『なぜ世界は〜』でこんなこと言ってたっけ、これは氏の言うように「同じ思想」なのかしら、と思ったので書いた。

 論点はふたつ、①論証が雑かつ誠実でないこと、②同じ思想とどうして言えるのか、ということ。

 ①に2点。ひとつ、ガブリエルが独自の文脈で用いている用語と「第三項理論」の用語について、必要な検討が行われていない。前者の定義は本で十分に述べられているが、それに対して後者、すなわち第三項理論の用語を未処理のまま対応させていること。ふたつ、その対応づけおよび文章の切り取りが恣意的であること。

 ②。第三項理論と新しい実在論が同じであると氏は述べる。が、両者の対立点は用意に挙げられる。第三項理論では「客体そのものは永遠に捉えられない」とするが、新しい実在論では「物自体には到達可能」という立場をとる、など。

 

 

 

□凡例と略号

原則として、傍線等は本稿の筆者の手による。また、著作は著者名の頭文字を取る。

・新しい実在論……NR(New Realism)

・難波博孝「「新しい実在論」と第三項理論」(『日本文学』 67(8)、pp.18-29、2018年、日本文学協会)……N

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(2018年、講談社選書メチエ)……G

 

○はじめに

 本稿では、難波博孝氏(以後敬称略)の論文「「新しい実在論」と第三項理論」(『日本文学』67号所収)において試みられた、「新しい実在論」を「第三項理論」の哲学的基盤にするという構想が、その基礎において破綻していることを説明します。

 

 「新しい実在論」とは、マルクス・ガブリエル(とマウリツィオ・フェラーリス)によって提唱された哲学思想であり、彼の著作である『なぜ世界は存在しないのか』にその見通しが立てられています。難波論文では同書のみをもとにNRを読解していることから、基本的にはそれに習い、他文献からの引用の際は個別に指定します。

 該当の論文は同氏のブログにてPDFで公開されているので、誰でも読むことができます。(http://linhakusin.tea-nifty.com/blog/2018/09/post-cb4d.html

 筆者は文学研究・理論についての見地に乏しく、また哲学徒でもありませんから、誤謬等不備があるかもしれません。

 

○破綻している点

 論文Nは大きく分けて、下の2つの点から破綻をきたしています。以下に続く①と②において、これが具体的にどういうことなのかを示します。

 

・NRを第三項理論へと関連させるに際し、その手続きが妥当でないこと

・そもそもNRは第三項理論の考え方と適合しないこと

 

①NRを第三項理論へと関連させるに際し、その手続きが妥当でないこと

 ある思想が別の思想と接点を持つ、あるいは、まったく同じような言説をなす、ということは否定しませんが、それぞれの思想を十全に検討することなくして同定することはできません。たとえ同じ言葉を使っていても、似たような文脈であっても、ほんとうに同じことを言っているのかは―殊に学問では―入念に比較する必要があるでしょう。残念ながら、論文Nではそれが十分に行われているとは言えません。

 

①-1.術語の未整理

 「第三項理論哲学論を、第三項理論の言葉ではない形で普遍的に語る」(N, p.24)ならば、まず第三項理論とNRの術語や概念について、十分な検討と対応関係の推定がなされるべきですが、それらが十全に行われないまま同定がなされています。

 それがどういうことか、〈3.「新しい実在論」の登場〉と〈4.モダン・ポストモダン・「新しい実在論」それぞれの見方〉で行われている、第三項理論の「客体そのものが存在しないこと」とNRにおける「世界は存在しない」というテーゼの対応づけを見てみましょう。(略号のあとの数字は、それぞれが共通のセクションにあることを示します。)

 

・N-1

すべてのものが存在するのは世界がないからである。世界が存在しない以上、どこの意味の場にも属さないはずの「客体そのもの」は当然存在しないのである。(N, p.24)

・N-2

ここで重要なのは、やはり意味の場である。物理学上の富士山も私が見る富士山も共に存在するといっても、それは意味の場がはっきり違っているのである。……しかし、富士山そのもの(すべてを包摂する物自体の領域にある富士山)は存在しないのである。(N, p.26)

 

・G-1

すなわち肯定的存在論の第二主命題、「どの意味の場もひとつの対象である」というテーゼです。どの意味の場にとっても、それが現象している何らかの別の意味の場が存在するということです。この洞察にたいする唯一の制限となるのが世界です。世界は現象しない以上、いかなる意味の場でもないからです。……いっさいのものが存在しているのは、世界が存在しないからにほかならないからです。世界について考えることはできません。(G, pp.116-117)

・G-2

このように考えると、じっさい存在しているのはヴェズーヴィオ山(という特定の火山)であって、それがソレントからとナポリからとで違って見えるのは偶然にすぎないようにも思われます。しかし、このような考え方では、意味(ジン)と意義(ベドイトウング)とを―すなわち意味の場と、そのなかに現象する対象事実とを―区別することはできません。これでは、さまざまな「与えられ方」(わたしたち個々の視点)を通じてしか接近できないにしても、じっさいに存在しているのは同質的な唯一の対象領域(すなわち現実それ自体、すべてを包摂する物それ自体の領域)であるかのように考えてしまいかねません。しかし、そのような印象は間違っています。「与えられ方」としての意味も、それとして存在しているからです。つまり、意味もひとつの対象だということです。それと同じように、対象が何らかの対象領域に属していること自体も、ひとつの対象にほかなりません。どんな領域に属しているかということは、対象にとって外的なことではありません。わたしのデスクが「想像」という意味の場に属するのと、わたしの仕事部屋という意味の場に属するのとでは、はっきりした違いがあると言わざるをえません。(G, pp.252-3)

 

 ここでいくつかの概念が混乱していることがわかります。まずは準備として、少し長くなりますが、G-2に至るまでの文脈を見てみましょう。(というのも、G-2の「このように考えると」は、Nにおいて、「こうして新しい実在論が想定するのは、わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している、ということなのです」(G, p.15)という別の文脈と接続されているからです)

 

芸術は、対象を現象させるだけではありません。当の対象がどんな意味において現象しているのか―その意味をも、ともに現象させます。これによって芸術が示すのは、およそ対象はつねに何らかの意味の場のなかでしか現象できない、ということにほかなりません。このテーゼには説明が必要でしょう。そのためには、もういちど、ちょっとした理論的な迂回をしなければなりません。……ある対象領域をほかならぬ当の対象領域としているものとは、いったい何でしょうか

すでに論じたように(筆者注:G, pp.99-102およびp.246)、ゴットロープ・フレーゲの理論によれば、およそ表現の「意味(ジン)」は当の表現の「与えられ方」として理解することができます。……ある対象がどのように与えられるかは、当の対象がわたしたちにたいしてどのように現象するかにだけかかっているわけではありません。ソレントから見るヴェズーヴィオ山は、ナポリから見るヴェズーヴィオ山とは違って見えます。これはヴェズーヴィオ山を見る者の眼によるものではなく、ひとつの事実にほかなりません。ひとつの表現から、さまざまな連想や表象が思い浮かぶかもしれません。しかし当の表現の意味は、さしあたってそれらの連想や表象には関係がありません。たとえば「ミーアキャット」という言葉から青色を思い浮かべるとしても、それは「ミーアキャット」という表現の意味とは関係がありません。このような「意味(ジン)」にたいしてフレーゲの言う「意義(ベドイトウング)」とは、その表現が結びついている対象のことです。そのような対象は、何らかの対象領域に属しています。そもそも何らかの対象領域に接近するには、まず何らかの意味が働いていなければなりません。

このように考えると、じっさい存在しているのは……(G, pp.251-252)

 

 ここは第VI章「意味と意義について」において、「対象はつねに何らかの意味の場のなかでしか現象できない」というテーゼの説明のために、フレーゲの「意味Sinn」と「意義Bedeutung」を導入する場面です。(訳の都合により訳語が慣例と逆になっているためやや取りにくいですが、意義=語の指示対象=意味の場に現象する対象・事実、意味=表現の与えられ方となります。意味の場Sinnfeldと意味Sinnが訳として連動している……Gの註釈p.322を参照のこと)

 それらを踏まえて読解すると、G-2のセクションはこういうことになります。「芸術の意味」を示す一環として、表現の与えられ方=意味と、表現が結びついている対象=意義という概念を再び用いる。対象や表現の与えられ方=意味は、人間にたいしてどのように現象するかによって一意に決まることのない、客観的なものである。意味と意義は区別される。意義は表現が結びついている対象であり、私たちは意味=与えられ方が働いていることを前提として対象領域-対象へと接近していく。……したがって、G-2において行われているのは、これらのことから早とちりして「同質的な唯一の対象領域」のみがあるとし、意味は対象となり得ないとする考えを諌めることとなります。

 ここ=G-1, 2では、意味=意味の場もひとつの対象であるとすることを蝶番に「世界は存在しない」というテーゼが通底していますから、当然ながら形式的な不備はありません。

 

 では、N-1とN-2はどうでしょうか。

 Gにおいては、「何かが意味の場に現れているという状態、それが存在するということである」(G, p.76)とあり、G-1はその変奏を含みます。また、世界が存在すると仮定すると「すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である」ことになり、「世界それ自体が属する意味の場など存在しない」(G, pp.109-111)と帰結することが示されます。G-2における「現実それ自体、すべてを包摂する物それ自体の領域」はそのことを言っていると読まれることがあるかもしれません。一見、それらを以ってN-1とN-2を個別に導くことは正しいかのように見えます。

 より主張を明確にするために、N-1とN-2をそれぞれ(肯定的に)変形してみましょう。すると以下のようになります。N-1はN-1'、N-2はN-2'のような論理でNRと第三項理論を結びつけ、客観そのものが存在しないことを示すものであると解釈できます。

 

・N-1(再掲)

すべてのものが存在するのは世界がないからである。世界が存在しない以上、どこの意味の場にも属さないはずの「客体そのもの」は当然存在しないのである。(N, p.24)

・N-2(再掲)

ここで重要なのは、やはり意味の場である。物理学上の富士山も私が見る富士山も共に存在するといっても、それは意味の場がはっきり違っているのである……しかし、富士山そのもの(すべてを包摂する物自体の領域にある富士山)は存在しないのである。(N, p.26)

 

・N-1'

「A:世界は存在しない。B:客体そのものはどこの意味の場にも属さない。ならば、客体そのものは存在しない」

・N-2'

「C:同質的な唯一の対象領域(すなわち現実それ自体、すべてを包摂する物それ自体の領域)が存在しているというような印象は間違っている。D:客体そのものはすべてを包摂する物自体の領域にある。ならば、客体そのものは存在しない」

 

 しかしここでは、Nで行われているNRの要約と適用が純粋にGに由来するものではないことに注意しなければなりません。

 たとえばN-1'では、「客体そのものはどこの意味の場にも属さない『はず』である」という判断が紛れ込んでいます―N-1に至るまでの文脈において、意味の場に属さないとはなにか、客体そのものはどうして意味の場に属さないのか、ということはまったく未定義のままです。「客体そのもの」という術語は、NRでなく第三項理論において語られているものであります。

 また「客体そのものはどこの意味の場にも属さない。ゆえに存在しない」という推論は「何かが意味の場に現れているという状態、それが存在するということである」(G, p.76)のテーゼのもとに成立するものですが、一方N-1'では「世界が存在しない以上」存在しないとします。よって、ここで「客体そのもの」が暗黙理に「世界」と重ねられている―意味の場に現れないということは世界と同質である、あるいは、意味の場に現れないなら世界に属するしかないと判断されている―のがわかります。

 しかし田中の記述によれば、「世界は主体によって捉えられた客体で現れ、客体そのものは現実世界にはない」(N, p.21)。ここで田中の言う「現実世界」および「世界」=「主体によって捉えられた客体」と、NRで言う「世界」は十分な論証を以ってすり合わせられていませんし、仮に上の判断を押し進めると、「客体そのものを措定」し第三項との「格闘」を行うことを想定する(N, pp.20-21)第三項理論は、「世界=客体そのもの=第三項は存在しない」として影=イデアの影として措定しない―すなわち第三項との格闘を行わないNRとは矛盾することになります。

 さらにガブリエルはこう書いています。(ここに第三項理論とNRの根本的な不和がありますが、それは②で別に扱うこととしましょう)

 

カントが言っていたように、わたしたちが「人間の立場から」世界を見ていることは、争うべくもありません。だからといって、世界がそれ自体としてどうなっているのかを、わたしたちが認識していないということにはなりません。わたしたちは、世界がそれ自体としてどうなっているのかを、まさに人間の立場から認識しているのです。……

わたしたちがこれまでに得た「世界は存在しない」および「果てしない派生のなかで果てしなく増殖していく無数の意味の場だけが存在する」という洞察によって、何らかの特定の世界像に依存することなく、人間をテーマにすることが可能になります。(G, pp.142-143)

 

 N-2'を考えるうえでは、先ほどG-2の文脈を検討したことが役立ちます。

 G-2においては、間違った印象として「同質的な唯一の対象領域」という捉え方を退けますが、N-2'ではそこに与えられた「すべてを包摂する物それ自体の領域」という補足説明を以って客体そのものが存在しない根拠としています。ここにも幾つかの混乱がありますから、順に見ていくことにしましょう。

 N-2'もまた、N-1'と同じような「世界は存在しない。ならば、客観そのものも存在しない」という形式を持ちますが、ここでは「すべてを包摂する物自体の領域」が「世界は存在しない」というテーゼの「世界」と結びつけられているような節があります。しかしながら先ほど見たように、G-2の文脈は「意味は客観的なものであり、それを前提として人は意義=対象へと接近していく。この話をすると、同質的な唯一の対象領域がある、すなわち意味は対象ではなく、〈現実それ自体〉〈すべてを包摂する物それ自体の領域〉のみが対象であるという印象を受けかねないが、それは誤りである。そうではなく、意味も対象たり得る。また、意味の場に属していることそれ自体も対象となる」というものでした。

 このことから、N-2が「すべてを包摂する物自体の領域」と「世界=すべての意味の場の意味の場」とを同一視していることが明らかになります。

 そして文脈的に、両者は厳密には等価ではありません。「同質的な唯一の対象領域(すなわち現実それ自体、すべてを包摂する物それ自体の領域)」が指示するのは、確かに自然主義に近いものでしょう。ガブリエルが自然主義構築主義を共に退ける以上、その背後には「世界は存在しない」のテーゼが見て取られるかもしれません。ですが、G-2は「客体そのもの」や(NR的な)「世界」が存在しないことを主にして述べたものではありません。

 したがって、「客体そのものはすべてを包摂する物自体の領域にある」という要素は、この論証において十分な働きを持たないことになります。N-2'のDには術語の混乱がみられ、また異なる文脈の議論を結びつけるような処理もされていないことから、「世界は存在しない。ならば、客体そのものは存在しない」というN-1の推論と結びつけるのは些か早計ではないでしょうか。

 

 多少込み入った話になりましたから、簡潔にまとめましょう。N-1とN-2はそれぞれG-1とG-2をもとに、同じパターンで「世界は存在しない=客体そのものは存在しない」とする論証を行おうとしています。しかし、術語が確実に定義されていないこと、それが整理されていないこと、そのまま概念の同定がなされていることに起因して、論証は妥当ではありません。

 

①-2.諸文学理論への安易な回収

 以上のような経緯を経て、NRは「第三項理論哲学論のコアと同じ思想である」(N, p.27)として同定されます。確固とした根拠を欠いた状態での同定を論拠とすることは、論旨の説得力をも失わせかねないものですが、論文Nにはそのような点が他にも見られます。

 〈5.新しい実在論と小説〉には、このような記述があります。

 

この二つの引用からわかることは、新しい実在論において芸術は、その作品が存在する意味の場自体に享受者を直面させる、としていることである。新しい実在論は、異化(シクロフスキーのいう異化)の新しい解釈を提出したということができるだろう。(N, p.28)

 

 「かくして芸術の意味は、通常であれば自明に過ぎない物ごとを、注目するほかない奇妙な光のもとに置くことにあります」(G, p.256)といった記述を見ると、確かにそれは異化を指したものであるとも思われます。だからといって、二者は同じものであるとすぐに結論付けてもよいものでしょうか。

 Gの芸術論で述べられているのは、NRをもとにした芸術論にほかならず、また、NRは第三項理論哲学論の基盤となるべく存在論として導入されます。であれば、同定に先んじてNR芸術論と「シクロフスキーのいう異化」がどのような(たとえば存在論的な)差異のもとで語られたもので、本質的にはどんな違いがあるのかという分析が必要になるでしょう。というのも、存在論であることがNRの核心である以上、NRでの芸術論には存在論から導かれたという特徴があるからです。NRを採用した上でなおその特徴を捨て去る、……つまり一理論である異化の別側面に回収するのであれば、存在論存在論を同定するという高いコストを払ってまでNRを援用する必要はありません。もとは「第三項理論哲学論を、第三項理論の言葉ではない形で普遍的に語る」(N, p.21)ことが目指されていたわけですから、それならば単に「シクロフスキーのいう異化」でよいわけです(あるいは大江健三郎か)。

 

 引用部に続いて、このような記述もあります。

 

「新しい実在論」が示す芸術・文学は、散文の世界で言えば小説である。自らの存在を問題化して示すこと、言い換えれば、近代の光と闇とを、内容ではなく、構造として―しかけとして―見せるようなジャンルとして登場したのが小説であった。近代の光と闇、人間の光と闇をいくら内容で語っても、それは物語にすぎない。構造として―表現のしかけとして―示さないと、近代以後の芸術の役割を果たせないということは、本書の「語っているということそれ自体も問題になります」ということでもわかる。そのためには、「客体そのもの」は存在せずしかしその影が主体の中に[客体]を生じせしめていることを一つの時間軸として読まれる散文形式で見せなくてはならない。そのような、不可能なしかけを、小説はやろうとしつづけているのである。(N, pp.28-29)

 

 さて、この箇所での引用元を見てみると以下のようになっています。論文Nでは末尾が省略されていましたから、段落全部を引用しましょう(下線部がNで引用されていないところです)。

 

重要な違いは、文学がつねに自らについても語っているという点にあります。文学では、語られている内容だけでなく、語っているということそれ自体も問題になります。文学では、言語それ自体が問いに付される。文学は、言語について語る―もっと正確に言えば、言語と現実の奇跡的な邂逅について語る。まさにこのことを、マラルメ散文詩は示してみせてくれているわけです。(G, p.260)

 

 このようにして―NR上で第三項理論を位置づけたり再構築するのではなく、NRを第三項理論に引き寄せることによって―Gは引用されます。つまり、特段詩や小説の差異に立ち入らないガブリエルの議論から、「NRが示す文学は散文文学でいう小説である」と(近代)小説を引き抜き、「「客体そのもの」は存在せず……」という第三項理論のもとでの(近代)小説へと飛躍します。詳しく見てみましょう。

 

 確かにNR芸術論は(氏の言うような)近代小説の備える特徴を、小説から遡る形で説明し得るかも知れません。ですが、ここで語られていたのは芸術一般、とりわけ文学一般のことです。

 マラルメ散文詩の解釈を試みると、「何らかの言葉がふと思い浮かび、しかもそれが真であるという偶然」、すなわち思いつきを都度結び合わせた信念(や文学)は数学的な命題と同じように真偽と関わりうるという「わたしたちの知覚と思考の本質的な基本条件」(G, p.259)を示していることがわかる。それだけではない。文学では、「語っているということそれ自体」が問題になる。すなわち、文学は「言語と現実の奇跡的な邂逅について語る」。……マラルメの詩を解釈してみることによって、このような芸術としての文学の特徴が説明されるわけです。

 「「新しい実在論」が示す芸術・文学は、散文の世界で言えば小説である」という言明を、ここから直接引き出すことはできません。より正確に言うならば、この文脈の下で「近代の光と闇、人間の光と闇を……構造として―表現のしかけとして―示す」ことや「「客体そのもの」は存在せずしかしその影が主体の中に[客体]を生じせしめていることを一つの時間軸として読まれる散文形式で見せ」ることを前提とするような(Nにおける)近代小説が、散文文学において唯一特権的であると言うことはできません。

 Nにおいては、そのような(近代)小説でなければ「近代以後の芸術の役割を果たせない」と明言されます。この文言は排他的なものです(すなわち、芸術である散文文学は小説であり、……というしかけを持つ。このしかけを持たないなら芸術未満であるという筋)。では、これはどう扱うべきなのでしょうか。

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(『新共同訳聖書』, ヨハ1, 1-5)

 

 「ヨハネによる福音書」の冒頭です。これ以外にも、『古事記』や『源氏物語』を挙げることもできますし、『華厳経』などもよいでしょう。散文文学というのなら、それこそマラルメ散文詩があります。……これらのものが散文文学ではない、近代以後においてもはや芸術・文学ではない、あるいは、近代以前と近代以後では芸術の役割が異なる、と果たして言えるのでしょうか(散文文学の定義があいまいなのもあるでしょうけれど)。

 これらは「わたしたちを意味に直面させ」(G, p.245)「言語と現実の奇跡的な邂逅について語る」ものではあり得ないのでしょうか。そうではありません。事実、これらは間違いなく文学として読むことができます(それを文学ではないとして退けることは、なるほど、「○○は文学ではない」論争に落ち込むことになります。しかしガブリエルはいくつかのテレビドラマや映画を芸術として取り上げていますし、……ともかく不毛な議論へと立ち入ってしまいます*1

 (近代)小説が「「客体そのもの」は存在せずしかしその影が主体の中に[客体]を生じせしめていることを一つの時間軸として読まれる散文形式で見せ」るものであるならば、NR芸術論に則って、それは芸術・文学において第一義的なものではないと言うことができるでしょう。芸術は我々を意味に直面させるものであり、中でも文学は「言語と現実の奇跡的な邂逅について語る」といいます。(散文)文学は(近代)小説だけではありません。むしろ、それら小説以外の散文文学と(近代)小説とを区別するところに、小説と物語の峻別や、上で述べられたような表現のしかけがあると見るべきではないでしょうか(ただし②で触れるように、そのまま「「客体そのもの」は存在せず……」という思想を持ち込むことはできませんが)。

 

 ですから、仮にNRと第三項理論が同じものとすると、ここでは以下のように論述すべきであったと言えます。「NR芸術論において、文学とは〜である。第三項理論が対象としてきた(あるいはそこから出た)小説は文学の中の〜の領域にある。それを区別する(近代)小説という意味の場の規則は、「「客体そのもの」は存在せず……」というしかけを用いるところにある」と。

 「第三項理論哲学論を、第三項理論の言葉ではない形で普遍的に語る」(N, p.21)ことは、ここにおいてもなされていなかったことになります。

 

 また、あらかじめNRが第三項理論哲学論のコアと同定されているからといって、NR芸術論においてガブリエルが語っていることがNRの諸テーゼと通貫しているかどうかは自身での検証を要します。翻って、NR芸術論を諸文学理論や第三項理論と関連させるならば、NR自体がそれらと通底しうるかどうかも再び問われねばなりません。

 

 ②.そもそもNRは第三項理論の考え方と適合しないこと

 これまで①では論文Nの形式面を分析し、その手続きに不備があることから、NRと第三項理論哲学論を同じものとする論証が妥当ではないことを説明しました。続く②では、仮に形式面で不備がなかったとしてもこの試みが失敗すること―NRと第三項理論哲学論は同じ思想ではないことを説明します。

 

②-1.「第三項理論哲学論」の整理

 まずは、第三項理論哲学論がどういうものか整理しておくべきでしょう。第三項理論哲学論は存在論として〈主体-[客体]-客体〉というモデルを呈示するといいます。論文Nでの該当部は以下の通りです。また、田中論文からの引用部も併記しておきます。

 

第三項理論は、「バルトの第二期のキーワード「還元不可能な複数性」」をふまえ、「客体の対象である客体そのものには永遠に到達できないというネガの形での〈第三項〉を想定している」のであり、「「読むこと」を客体の対象の文章そのものは永遠に捉えられないが、その捉えられないとする「還元不可能な複数性」というイデアが読み手の捉えた客体の文章がコンテクストをもってなし、客体の文章の〈影〉として読み手自身の前に厳然として現れる」(引用はいずれも(田中(2017a))のである。つまり、主体には、〈影〉として現れるとするのである。(N, p.20)

 

「我」という主体はわたくし田中の用語で言えば、〈わたしのなかの他者〉によって成立し、単独に自立した主体や客体、そして他者などそれ自体が存在しているとは考えません。世界は主体によって捉えられた客体で現れ、客体そのものは現実世界にはないのです。この現実には存在しない客体そのものをわたくしは〈第三項〉、了解不能の《他者》と呼んで、この〈語り得ぬもの〉との格闘を独自に日本語でなすところに日本の〈近代小説〉があると考えています。(N, p.21、田中論文からの引用部)

 

 傍線部の文意が明瞭にとれないのでそれ以後の難波の解釈をもとに示しますと、第三項理論哲学論は「「客体そのもの」の〈影〉により客体が主体に生まれるといいながら、「客体そのもの」には到達不可能であるという思想」(N, p.20)ということになります。

 その「『客体そのもの』には到達不可能である」という命題は、何よりもまずカントの「物自体」の論を思い起こさせるものですし、それはGにおいても「構築主義」として言及されています(G, p.10-13)。「物自体」と「客体そのもの」の文脈的差異を考えれば、前者が認識に関わるものであるのに対し、後者は(氏の読解によれば)存在についての言明であると言えるでしょう(N, p.21)。

 そして論文Nにおいては「ポスト・ポストモダンの地平」にある「第三項理論哲学論を、第三項理論の言葉ではない形で普遍的に語る」(N, p.21)ことが目指されています。その流れで、カントや他の哲学思想ではなくガブリエルが、すなわち「新しい実在論」が、「第三項理論哲学論のコアと同じ思想」(N, p.27)として―ポストモダンを乗り越えるような存在論を語る哲学として―援用されています。

 

②-2.Nにおいて支点となるGの読解

 さて、NRが「第三項理論哲学論のコアと同じ思想」とみなされる流れは①において既に見たところです。

 ここでは形式は一旦置いておいて、その内実を―つまり、NRと第三項理論哲学論が実際に同じ思想であるかどうかを検討してみましょう。もし本質的に同定が可能であるならば、論文Nは論証を修正するだけでよいわけです。

 論文Nの4章は、NRを整理したうえで以下のように結論付けられます。

 

「新しい実在論」は、その理論的必然から、「客体そのもの」は存在しない一方でさまざまの「客体」(主体のなかの客体)が異なる意味の場で存在すること、つまり夢も現実も同じ資格で存在していること、これらを言明している。これは、第三項理論哲学論のコアと同じ思想である。私たちは、こうして、第三項理論の哲学的基盤を、ドイツから得ることができたのである。(N, p.27)

 

 ここでNでは、NRにおいては「客体」すなわち主体のなかの客体が存在するのであって、「客体そのもの」は存在しないと断言します。本当にそうなのかどうか、〈4.「新しい実在論」の考え方〉で中心となるGの記述を見てみましょう。

 

こうして新しい実在論が想定するのは、わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している、ということなのです。(G, p.15)

 

 引用部は、思考実験として、NRにおいて考えられうるヴェズーヴィオ山の存在の仕方を列挙してみるセクションにあります(G, p.14-15)。条件設定は以下の通りです。

 

アストリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、わたしたち(この話をしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、同じヴェズーヴィオ山を見ているとします。(G, p.14)

 

 NRにおいては、そのばあい、「1:ヴェズーヴィオ山」、「2:ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)」、「3:ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)」、「4:ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」が少なくとも存在するとされます。そして、難波はその4つの対象のうち、はじめの、他の誰の視点でもない「ヴェズーヴィオ山」に対する言及(「ヴェズーヴィオ山が現在のところイタリアに属する地表面の特定の地点に位置している火山であるということ、これだけが事実なのではありません」、G, p.15)、これを「地学あるいは物理学の対象としての」という限定として解釈したものと考えられます。

 これに関しては妥当な読みといえるでしょう。

 NRにおいて事実と思考は同じ権利であり、自然主義構築主義とが共に退けられるという文脈を考えれば、1は自然科学などによって記述されうる物理的なヴェズーヴィオ山、2~4は誰かの視点perspectiveのもとでのヴェズーヴィオ山、となります。

(※補足:ガブリエルはインタビューにてこう答えています。「意味の場とは、規則によって排他的にするという条件のもとで対象が現象する場です。例えば、物理的対象は(物理的)科学によって発見された規則に従属します。この事物が現象する意味は、物理法則に関わる意味です」(「『なぜ世界は存在しないのか』入門」:『現代思想』{2018年10月臨時増刊号}、p.13)。よってガブリエル哲学としてのNRでは、私たちが何かを見るとき、それは素朴な視点ではない。ある人が見る火山は光学的なもの、すなわち物理的科学の意味の場にある。……「視点」という訳語に惑わされがちですが、NRの術語としての視点は物理的な対象に相対してそれを見る/眺めるという意味での視点とは厳密には言えず、見方・立場としてのperspectiveに近いことに留意しなくてはなりません)

 

 このようにまとめられるでしょう。「NRにおいて、存在とは意味の場に現象するものである。意味の場に現象するというそのことにおいて、事実とそれについての思考は同じ権利で存在する。そこを離れた単体としての物は存在しない」。

 

②-3.NRにおいて「物および事実それ自体」は存在する

 このことを支点として、NRにおいても「『客体そのもの』は存在しない」のだと結論づけられています。そうして導かれるのは、物理学上の山と私の視点上の山は異なる意味の場にある=山そのものには到達不可能である(N, p.26)ということ、また「意味の場の外に存在はない。客体そのものは存在しない。これが「世界はない」ということ」(N, p.27)でした(しかしながら、ここは①-1で見たように(G, p.15)と(G, pp.252-3)の異なる文脈が混在する箇所です)。

 つまり、Nによって主張されるのは、NRにおいて、自然科学や私たちの思考が対象とするもの、すなわち主観などによって歪められていない物それ自体(定義上「客体そのもの」と同じものとして扱えるでしょう)には到達不可能である、ということになります。

 たしかに「意味の場の外に存在はない」ことは②-2で見たように明らかです。前に取り上げた記述によれば、意味の場を離れて単体で存在するようなものはない。「「我」という主体はわたくし田中の用語で言えば、〈わたしのなかの他者〉によって成立し、単独に自立した主体や客体、そして他者などそれ自体が存在しているとは考えません」(N, p.21)といった記述を見るに、両者は符合するようにも見えます。

 

 しかしながら、「意味の場の外に存在はない」ことは必ずしも「物それ自体」が存在しないことを含意しません。

 Gには、「主体と主体のなかの客体が存在し、客体そのものは現実世界に存在しない」、また「客体そのものには到達不可能である」というNの主張に対する、文脈の検討を待たない反証―すなわち端的に「物それ自体」が存在するという記述があります。長くなりますが、いくつか挙げておきましょう。

 

存在論的な観点からすれば、それを人間が経験するかどうかには、副次的な役割しかありません。物や対象は、わたしたちにたいして現象するからこそ存在しているわけではありません。(G, p.103)

 

これにたいして新しい実在論は、次の二つのテーゼからなっています。第一に、わたしたちは物および事実それ自体を認識することができるということ、そして第二に、物および事実それ自体は唯一の対象領域に属するわけではないということです。(G, p.169)

 

すると、この現実の基底となるような何らかの層が存在するのではないでしょうか。……だとすると、そのような多様な現象(筆者注:五感で手を感じるなど)とは別に、物それ自体、つまりわたしの左手それ自体が、たしかに存在していなければならないのでしょうか。これにたいして新しい実在論はこう主張します。わたしの左手は、そのときどきに違った仕方で現象するということと別に存在するわけではない、と。……だからといって、そもそもわたしの左手は存在しないと結論するか、さもなければ、いろいろな視点から見られることとはまったく別に左手それ自体が存在するのだと結論するか、どちらかを選ばなければならない理由があるでしょうか。ポイントは、物それ自体が多様な仕方で現象するということです。それらの現象のいずれもが、それ自身、一つひとつの物それ自体にほかなりません。……現象とは別に存在するハードな事実がこの現実をなしているのではなく、いわばさまざまな物それ自体とその現象とがともにこの現実をなしているのです。……以上のような議論を背景として、新しい実在論はこう主張します。真である認識は、いずれも物それ自体(あるいは事実それ自体)の認識である、と。真である認識は、幻覚でも幻想でもなく、物ごとの現象そのものだからです。(G, p.175-176)

 

新しい実在論は、主観的真理もたしかに存在すると想定します。とはつまり、何らかの認知機構が作動してこそ接近することのできる真理が存在する、ということです。……だからといって、そのような形の真理がどれもある種の幻覚であるとか、どれも偽であるということにはなりませんし、世界を区分する継ぎ目に沿って物ごとを―すなわち物それ自体として―認識することが、わたしたちにはできないということにもなりません。(G, p.184)

 

 このように、ガブリエルは、人間は物自体および事実それ自体を認識していると明言しています。NRにおいて物それ自体は存在し、到達可能です。現象と別に存在することこそ退けられますが、決して到達不可能なものではありません。

 この点において、第三項理論と新しい実在論ははっきり相違します。もはや言うまでもありませんが、NRと第三項理論哲学論とは同じ思想ではありません。「誰もが自らの世界を見ているのであって、けっして物それ自体を見ているのではない」(G, p.166)という主張は、構築主義として幾度も退けられています。

 

②-3-1.NRにおいて「文章それ自体」は存在する

 NRにおいて「物および事実それ自体」が存在するならば、文学作品の「文章そのもの」も私たちにとって目の届く仕方で存在することになるでしょう。事実、ガブリエルは以下のように書いています。

 

これとまったく同じように、仮にゲーテの『ファウスト』を眼にする独文学者がひとりもいなかったとしても、ファウストがグレートヒェンを愛するようになったという事実に違いはありません。(G, p.64)

 

一見すると、芸術作品はあまりに多義的なので、むしろ芸術作品について議論する余地はほとんどないと考えてもよさそうに思えます。いっさいは、芸術作品がわたしたちに与える偶然的な印象にかかっているように思えるわけです。このような前提のもとでは、客観的な妥当性をもつ詩作品の解釈など存在しないことになるでしょう。とすれば、作品解釈による文学研究の長所は、さまざまな主観的印象を明晰に言い表わすことにしかないことになるでしょう。しかし、詩作品がさまざまに解釈できるからといって、それらのさまざまな解釈―当の詩作品の照らされ方を考慮に入れることも解釈に含まれます―が、どれも客観的でないことにはなりません。さまざまな解釈が可能であるということ、つまり多義性は客観的なものです。芸術家の意図を参照しても、この多義性を縮減することはできません。芸術家の意図それ自体も、つねに両価値的だからです。詩作品のさまざまな解釈は、いずれも当の詩作品のさまざまな意味にほかなりません。芸術作品の美的な要素を解釈において特に考慮することも、当の芸術作品の意味のひとつです。(G, p.253-254)

 

 対して、第三項理論はこのようなものであると説明されます。もう一度引用しましょう。

 

第三項理論は、「バルトの第二期のキーワード「還元不可能な複数性」」をふまえ、「客体の対象である客体そのものには永遠に到達できないというネガの形での〈第三項〉を想定している」のであり、「「読むこと」を客体の対象の文章そのものは永遠に捉えられないが、その捉えられないとする「還元不可能な複数性」というイデアが読み手の捉えた客体の文章がコンテクストをもってなし、客体の文章の〈影〉として読み手自身の前に厳然として現れる」(引用はいずれも(田中(2017a))のである。つまり、主体には、〈影〉として現れるとするのである。(N, p.20)

 

 NRの考え方によれば、「文章そのものは永遠に捉えられない」ということもありません。ガブリエルは諸々の芸術作品を解釈の対象として認めます。そしてそれらは幻覚などではない。「文章そのもの」、芸術作品は意味の場に現象し、それに対する私たちの解釈は客観的な妥当性を持ちえます。

 さて、これに対して「(日本)近代小説においては異なる」との反論が考えられます。しかしながら、それ自体が(日本)近代小説の無根拠な特権化にほかなりません。ガブリエルは(日本)近代小説のみを取り上げた考察を行っていないので、反論の前にまずそう主張しうるだけの論拠を、第三項理論のみに依拠するのではなく、NRを参照しながら積み重ねなくてはならないでしょうし、そうしたところで、NRと第三項理論哲学論が衝突することは変わりません。

 

○結論

 以上のように、①NRを第三項理論へと関連させるに際し妥当な手続きが取られていないこと、②そもそもNRは第三項理論の考え方と適合しないことの二点から、新しい実在論を第三項理論の哲学的基盤にするという構想は失敗しており、かつ不可能であると言えます。

 ②は大半が引証で占められていましたから、端的にこう説明しておきましょう。

 

・新しい実在論は主体から独立した実在を認める。

・第三項理論は主体に関わる限りでの実在を認める。

・新しい実在論と第三項理論は異なる。

 

 論文Nとその方法が導くのは、相反する2つの思想が矛盾し癒着し共存する、それこそおぞましい状況にほかなりません。これでは、両者が本来持っていたかも知れない豊潤さは捨て去られ、新しい実在論は思想擁護のためだけの(まさに文系擁護の)哲学へと成り下がります。

 そしてまた、これを教育へと(ゆくゆくは)応用することを想定されているといいます。現在の社会を「相反する2つの思想が矛盾し癒着し共存するという状況である」とするならば、まさにこのような状況を指すのでしょう。この先に繋がるのは、混乱の再生産であるわけです。

 

 また、補足と検討すべき問題を以下にまとめておきます。

 

○補足・検討すべき点

・②-3-補足1

 氏の挙げた例を用いるならば、もし「物それ自体」が存在しない場合、異なる意味の場にある富士山を同じ富士山と呼ぶことは不可能です。あるものが異なる意味の場に立つとき、視点perspective/現象が物それ自体を欠いておりかつそれに到達不可能であるならば、それらを同じものとして知るための要素が無くなってしまうからです。物それ自体が現象の向こうに措定されるとしても同様です。皆で各々の視点/現象をすり合わせ、そうして共同の富士山を措定するとしても、それが厳密に同じ富士山である確証はどこにもない―結局のところ物それ自体は与えられないからです。

 そのような場に客観はありえません。あるのは合議によって仮に定められた、多数にとってもっともらしい「客観〈的な〉もの」でしかなく、およそ物事の真偽は語りえません。

 複数人で富士山を見ている。けれども、その誰もが同じ富士山を見ているかどうかは知ることができない。現実世界には物それ自体を欠いた現象しかない。……まさにこのような思考を、NRは構築主義として退けます。

 

・②-3-補足2

 「主体によって捉えられた客体」の現れを世界とし、その背後に到達不可能な客体そのものを置くこと自体が物それ自体や事実、人間の存在論における特権化に他ならず、NRには合致しません。

 Nにおいては主体に関わる範囲でしか意味の場が想定されていませんが(科学、誰かの視点、文学)、人間がまったく関わることのない領域―主体の介在しない意味の場も想定することができます。NRによれば、物や対象は、人間に対して現象するからこそ存在しているわけではないのです。

 

・第三項理論哲学論の図式が構築主義的であること

 第三項理論哲学論はこのように図式化されます。〈主体-「客体」-客体そのもの〉、客体そのものは存在せず、到達不可能であり、必要上措定されるものである、と。

 考えてみると、「世界は主体に限定された形でしか現象せず、客体そのものには到達不可能である。が、客体そのものは措定される」という点は特にカントのようですし、「『客体』は客体そのものの射影である」という点でフッサールのようでもあります。また、田中氏によれば、「第三項には到達不可能であるが、それとの格闘を行うのが『日本の〈近代小説〉』(N, p.21)であり、客体そのものは『ネガの形で』(N, p.20)想定される」といいます。たしか、ラカンあたりが似たような話をしていたような。……

 そのような状態だからこそ、なぜそれらの哲学思想ではなくNRなのか、という問いが噴出します。〈主体-「客体」-客体そのもの〉の図式が既存の哲学・思想で用いられたものと酷似しているのなら、すでに豊富な先行研究があり、批判も積み重ねられているそれらを理論の基盤として援用するほうがより盤石です(私には、上の図式はカント的なものにしか見えません)。

 しかし既に見たように、なぜNRなのか、に対する回答は「第三項理論と通底するポスト・ポストモダン存在論であるから」ということになります。一方、〈主体-「客体」-客体そのもの〉という図式は堅持される……それは何を導くのか。第三項理論とNRの衝突というだけではありません。「第三項理論哲学論はポスト・ポストモダンの思想であると言いつつも、その内実は〈構築主義/相関主義〉と同じである」という結論にさえ至りかねないでしょう(前者はガブリエルの、後者は思弁的実在論の術語です)。

 「第三項理論と通底する」という前提は無効になりますから、無用な深読みをするならば、「ポスト・ポストモダン存在論」という看板に惹かれたポストモダンへの敵愾心ゆえの早計だ、とする人もいるかもしれませんね。

 そしてそれは氏にとっても本意ではないはずです(第三項理論自体が思想的にどのように位置づけられるべきかは、氏の意図とはまったく別のことですが)。

 

 この問題の根源は、第三項理論の哲学的基盤を導入しようとしてしまったことにもあるでしょう。そもそもその構想に問題があり、さらには「第三項理論哲学論」を、NRにフィットさせるために過剰に、あるいは不適切にモデル化してしまっているというわけです(つまり〈主体-「客体」-客体そのもの〉など)。

 この論考Nは、もとは日本近代小説に向き合う中で見出された第三項理論を、NRを援用することで、「文学論を経」ない単独の第三項理論「哲学論」として再構成しようとする試みであり、そのとき行われた処理は、第三項理論を〈主体-「客体」-客体そのもの〉という図式に分解し存在論とすることでした。

 しかしながら、NRは一つの哲学思想であり、存在論です。それを別のある思想や理論の基盤に導入するならば、当然NRのもとに整合的な理論構築がなされねばなりません。第三項理論を認識論、それも限定された意味の場でのみ適用可能な知覚の働き方等に留めておくならば、問題が回避され得る可能性があったのかもしれない(確実に回避できるということではありません)。しかし、NRに矛盾することは許されない。そして第三項理論は存在論と解釈されます。すでに述べたように、第三項理論の〈主体-「客体」-客体そのもの〉という図式とNRは存在論として整合しないので、ここがまず批判のポイントとなります。

 そして、過剰なモデル化は―その真偽はともかくとして―第三項理論は結局のところ構築主義の一形態にすぎないという批判を招きます。……とうぜん氏は反論されるでしょう。そしてそれはこういうふうにではないでしょうか、「第三項理論は、それらには回収されない豊かさを持つ」と。つまりはそういうことでしょう。大本の第三項理論は、もっと異なる形での整理がなされるべきなのかもしれません(もっとも、それが何でありえるか等の立ち入った話は私の領分を出ますが)。

 

 「第三項理論哲学論を、第三項理論の言葉ではない形で普遍的に語る」(N, p.21)ことを不可能とは言いません。ですが、そのために安易に他の哲学を「哲学的根拠」(N, p.29)として導入することは、遡ってその理論そのものまで殺しかねません。第三項理論がすでに哲学論を包含するといいますから(N, p.19)、そうであるならば、たんに迎合するのではなく、他の哲学思想や文学理論等と粘り強く比較検討することを続けながら、その中で少しずつ術語を見出していくほかないでしょう。

 「第三項理論哲学論を、第三項理論の言葉ではない形で普遍的に語る」ことが、他の哲学を導入すると明言した上で行われないのであれば、それはそのテツガクの権威に与ろうとする以外のなにものでもありません。

*1:とはいえ、ガブリエルによればこのような「○○は文学ではない」論争は、彼が「擁護しようとする哲学的な描像とまさに両立する」(『現代思想』(2018年10月臨時増刊号:総特集=マルクス・ガブリエル)、p.17)ともいう。